気になっていながら、いつまでたってもわからない言葉に「間(ま)」がある。たとえば「間が抜ける」という言い方がある。いったい何が抜けているのだろう。「間が悪い」思いをすることもしばしばだ。いったい何が悪かったのか。
間(ま)は、二つのモノあるいはコトが先にあって、単にその間隔としてあるのではない。むしろ間そのものに本質があるように思える。門のすき間から日(旧字は月)の光が射し込んでいる。そのすき間は空白だけれども、何もない空白にこそ意味がある。光がある。
時間的な間(ま)は、タイミングだと説明されることが多い。確かにタイミングが悪いと、間の悪い思いをする。しかしこれが難しい。タイミングがあっていれば、それでよいのか。僕はタイミングを少しずらしたところに、間の本質があるような気がしてならない。
僕が感心するのは、鼓を打つときの絶妙な間(ま)の取り方だ。あるとき思った。それは呼吸と関係しているのではないかと。呼と吸が間を決めている。大鼓と小鼓が一組となって演奏されるときもそうだ。それぞれの奏者の息があっていないと、間が取れない。
空間的な間(ま)は、必ずしも間(あいだ)ではなく、区切られたその場そのものを意味することが多い。たとえば住宅における居間や客間、応接間は部屋そのものだ。そう考えると空間という言葉も面白い。それが「空の場」だとすれば哲学的だ。奥が深い。
デザインにおける間(ま)として余白がある。余白は余った白い部分で、ネガティブスペ-スと呼ばれることがある。僕はこの言い方に違和感を覚える。それは決して余った部分ではない。ネガティブではない。余白こそがそのデザインに命を吹き込んでいるのだ。
僕は間(ま)を見計らうことが得意ではない。講演も会話も間が大切だと思いながらうまくいかない。無理すると間が延びて、それこそ間の抜けた結果になるのが落ちだ。つくづく間は難しい。間を極めたいと思っても、すでに人生は残り少ない。間に合わない。とりあえず間に合わせの人生を送るしかない。