不安 2020.07.05-07.11

いま社会は不安の中にある。日常生活での個人的な不安もあるけれども、いつ収まるかわからない感染症の拡大に対する不安、今後の経済に対する不安、これまでリードしてきた国がおかしくなって、世界がこれからどうなるのかという不安もある。不安とどうつきあうかが問われている。

不安があるから人は危険を予め感知して準備する。その意味では不安は動物的な自己防衛本能であるとも言える。不安がなければ人類は生き延びることはできなかった。一方で、不安は自分自身を苦しめることになる。芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺した。

病気と診断される不安もある。たとえば不安障害がある。対象がはっきりしない漠然とした恐れや緊張感で、動悸や発汗などの自律神経症状を伴う。それによって、日常生活に支障をもたらす。自分で制御できない不安に悩んだら、病気だと割り切って医者にまかせることも必要になる。

ヒト以外の動物は不安を感じるのであろうか。犬や猫にも分離不安症と呼ばれる心理状態があるらしい。愛着のある相手から離れることに対する不安である。花火や雷の音を怖がる騒音感受性も報告されている。一方で漠然とした将来に対する不安はどうだろうか。これはヒトだけのような気がする。

いま街には、不安を掻き立てるベストセラー書の広告が溢れている。不安はビジネスになる。それによって成り立っている産業を不安産業と呼ぶことがある。広く解釈すると、一部の健康産業さらには保険産業も不安産業となる。経済の視点だけから見れば、宗教は最古の不安産業かもしれない。

近代は不安の時代だと言われて久しい。キルケゴールに始まる不安の時代の哲学は、ニーチェやフロイトを経て、第一次大戦後のハイデッガー、ヤスパース、そしてサルトルなどの実存主義に引き継がれた。これほどの哲学者たちが不安に挑みながら、太刀打ちできていない。不安は手強い。

人生も社会も不安だらけだ。何事も理想的にはいかないのだから、それは仕方がない。不安がないことこそが異常だと考えた方がいい。そうだとすれば「不安を不安として持ち続ける力」が必要になる。現代を生きるためには、不安をも力とするしぶとさが要求される。