自殺の是非 2020.07.19-07.25

命に関連する問いに「人はなぜ自殺をしてはいけないか?」がある。あるシンポジウムで、これをテーマとして短い講演をしたことがある。これは命を考えるときの究極のテーマだ。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いの方がずっと易しい。

これから自殺をしようとしている人に、「なぜ自殺していけないか」を講釈しても何の効き目もない。もし自殺を告白されたら、その人はあなたに助けを求めているのだから、ただひたすらその人に寄り添うしかない。時間をともにするしかない。

「人に迷惑をかけなければ、勝手に自殺したら」。そのように突き放す人もいる。でも、本当に誰にも迷惑をかけない自殺はあるのだろうか。親や友人は悲しむ。電車に身投げする人は、運転手のことを考えてほしい。自殺の第一発見者が受けるショックも大変なものだ。

自殺は伝染する。明治36年、当時一高生の藤村操が日光華厳の滝で自殺した。「悠々たるかな」で始まる有名な遺書を残して。華厳の滝は自殺の名所になり、その後4年間で185名が自殺を図り、40名が命を絶った。人には自殺願望がある。その自殺を誘発することは、殺人者になることと同じだ。

自殺をするときは、自分の周りの世界が見えなくなる。自分自身を客観的に見ることができなくなる。それは一時的なことだ。自殺はその一時の気の迷いで、一生を終わらせてしまう。一度死んでしまったら、とりかえしがつかない。生きていさえすれば何とでもなるのに、それがわからなくなる。

宗教では、自殺するとその後にもっと酷な苦界が待っていると教える。自殺しても楽にはならない。自殺は大罪だから、死後に厳しい罰を受ける。信じない人もいるけれども、これが嘘だと、あの世から戻ってきちんと報告した人は誰もいない。信じていればよかったと、死んでから後悔しても遅い。

自分の身体が自らの所有物であるとすれば、それを廃棄することは所有者の自由だ。自殺して何が悪いということになる。所有物でなく預かり物だとすれば、勝手に処分することは許されない。そうだとすれば誰からの預かり物なのか。神なき時代の究極の問いとして重くのしかかる。