僕のような戦後すぐの世代のキーワードは希望だった。学校の習字では、その二文字を大きく書かされた。この歳になって遅ればせながら世の中のことが少しわかってくると絶望と書きたくなる。でも僕の人生が希望から始まって絶望で終わっては寂しい。あえて今週は希望をテーマとしてつぶやく。
希望は未来に望みをかけること。未来がこうあってほしいと希うこと。自分自身の未来が短ければ、子や孫さらにその先の世代の未来がある。あるいは現世で難しければ、来世に期待する未来もある。このすべてが未来だとすれば、人は死ぬ直前まで希望を持てる。絶望だけで人生が終わることはない。
ギリシャ神話では、人類の最初の女性であるパンドラが、好奇心からパンドラの箱を開けて、あらゆる悪いものが溢れ出たときに、最後に箱の底に残ったのが希望だったとされる。希望だけが手元に残ることによって、人は絶望から逃れることができた。
進歩史観を信じられなくなった近代の哲学の多くは、絶望から始まる。キルケゴールは、絶望とは死に至る病だとして、その対極に神による赦しを挙げている。ニーチェは、それは弱者だとして、超人になることを説いた。僕は一人で超人になることは無理だと思う。協力すれば希望を持てるかもしれない。
僕の未来への希望は、一人一人が生きていてよかったと思える時代になることだ。生きている人すべてに生きていてよかったと思う権利がある。そのためには平和であってほしい。差別がなくなってほしい。生きがいが持てないほどの貧困がなくなってほしい・・・。
希望は押しつけるものではない。僕には僕なりに未来はこうあってほしいという希望がある。でもそれは僕の希望でしかない。次の世代はそれとはまったく異なる未来を目指してもいい。それで未来の人たちが本当に幸せになれるのであれば。少なくとも幸せであると思えるようになるのであれば。
僕が尊敬する方が遺された言葉、「若い人を信じよう!」。そうなのだ。僕の歳で未来に希望を持つとしたら、若い人を信じる以外にない。次の世代に希望を託す以外にない。そもそも人生はマラソンでなく駅伝なのだから、次の走者に肩をたたいてタスキを渡すしかない。