祈る心 2017.12.31-2018.01.06

今日は大晦日、今夜から大きな神社仏閣は、初詣での人でいっぱいになる。ついこの間はクリスマスだった。この時期、神仏を信じていなくても、日本人は祈る。なぜ祈るのだろう。そもそも祈るという行為は何なのだろう。

あけましておめでとう。今年もいい年でありますように。年の初めの元旦に、それまでの一年を感謝する。そしてこれからの一年の多幸を祈る。この歳になると、自分のことよりも、未来を生きる人たちが本当に幸せになれるか、それが気になる。そして祈る。

祈りは、神様や仏様にお願いをすることだと思われている。本当にそうなのだろうか。もしそうだとすれば、例えば賽銭はお願いにともなう契約金あるいは頭金となる。お願いが叶えられなかったら、それは神様・仏様の契約違反になる。

祈りは逃避だという人がいる。そうだろうか。逃避していたら祈ることはできない。面倒くさいことは逃避して、安易にかつ効率的に願いが成就することを目的として祈るとしたら、それは偽の祈りだ。祈りはそのような打算でするものではない。祈りは一所懸命生きようとしている人だけに許されている。

祈りで一番大切なことは、お願いではなくて、感謝することだ。いまの自分があるのはすべて自分の力だと思っていたら、感謝の気持ちは生まれない。小さな存在である自分をいつも見守ってくれてありがとう。そのような謙虚な気持ちにならないと、祈ることはできない。

人は自分が一番強くて絶対者であると思うと祈らなくなる。自分の力ですべてができると思っていると祈らなくなる。必ずしも具体的な神仏でなくてもいい。人知を超えた大きな力を感じるときに、人は祈る。助けを求める大切な人がいるときに、自分の力だけでは助けられない。そのとき人は祈る。

科学が進歩して神仏の存在が信じられなくなったとき、あわせて祈る心も忘れてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、それは人が傲慢になったということだ。自分中心になって、謙虚さを忘れてしまったということだ。もしかしたら自分自身がそうなっていないか。年の初めに改めて自分に問い直す。