見るということ 2019.02.10-02.16

僕は画像・映像技術の研究者として生きてきた。百聞は一見に如かず。画像・映像にはそれだけの情報量と価値があると信じてきたからだ。一方で、見るということの限界も痛感してきた。改めて問う。見るということは何なのだろうか。

写真は真を写すと書く。本当に真を写しているのだろうか。映像は像を映すと書く。そこに映されている像とは何なのか。像はイメージ、人がそこで見ているのは、真ではなく心に映し出されたイメージに過ぎないのかもしれない。

人は画像や映像を見ると、そこに映っているものは真実であると信じてしまう。技術者の立場からは決してそんなことはない。いくらでも加工が可能だからだ。加工していなくても、見る人の気の持ち方で、見え方が変わる。指名手配写真の顔が悪人に見えるのは、悪い人だという先入観があるからだ。

錯視と呼ばれる現象がある。実際とは違って見えてしまう目の錯覚だ。違うとわかっていても、そう見える。視覚情報を勝手に脳が補正してしまうからだ。人はその補正された世界を見て生きている。それはそれで意味があるのだけれども、それが見るということなのだ。正確にそのまま見ているのではない。

見ている対象が本当にそのままあるのか。夢で見ているものは、実際には存在しない。自分がいま夢の中にはいないということを、どう証明するか。それは哲学の大問題であった。そしてそれは僕自身の未解決問題である。近い将来に夢と現実の区別がない世界に入れば、自然に解決するのだろうけれども。

科学者は見ただけでは信用しない。それを信用するには、それなりの手続きを踏む。科学的方法と呼ばれるものがそれだ。しかしその手続きを踏んでも、それが存在することは言えても、それだけでは本質や意味は見えない。見るということは、それほどに奥が深いことなのだ。

見たくないものを強引に見せつけられる。最近そのようなことが多くなった。必要なことはしっかりと見なくてはと思いながら、一方でうんざりする毎日だ。短い人生をできれば美しいものばかりを見て過ごしたい。そう思いながらそうはいかないのが人生なのかもしれない。